(342)選手の言葉に寄りすぎてはいけない。コメント重視主義への違和感と反論

(342)選手の言葉に寄りすぎてはいけない。コメント重視主義への違和感と反論

2017年08月10日発行

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メールマガジン「杉山茂樹のたかがサッカー、されどサッカー。」
(342)選手の言葉に寄りすぎてはいけない。コメント重視主義への違和感と反論

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 世界陸上で解説の増田明美さんは、女子マラソンは監督と選手とが深い固い絆で結ばれていると解説していた。

 その話を聞きながら思い出したのは、フィギュアスケートの世界選手権で優勝した浅田真央選手が、表彰式を終えるや授与された金メダルを佐藤信夫コーチの首に掛け、2ショットに収まった映像だ。両者の関係性を見た瞬間だ。佐藤コーチは浅田真央から先生と呼ばれていたように記憶する。

 シンクロの井村雅代ヘッドコーチもしかり。選手から先生と呼ばれている。監督(コーチ)と選手は、個人競技ほど師弟関係の度合いが強くなる。

 報道は、それを美談として描こうとする。スポーツ全般にそのノリを適用したがっている。例外はいくらでもあるというのに、だ。

 例えばサッカー。監督は、選手にとって恩師だろうか。恩師だと思っている人もいれば、そうでない人もいる。理由は分かりやすい。監督の一番の願いはチームの勝利であり、選手の願いは自分が出場し、活躍することだ。監督と選手の思惑が一致するのは、選手に出場機会が与えられた場合に限られる。ベンチを温め続ける選手は、チームが勝利しても、本心から喜ぶことはできない。それぞれには、計り知れない温度差が存在するのだ。

 試合に出ている人と、出ていない人。この差は大きい。サッカーには、選手の能力や調子、すなわち優劣を判断するデータが、得点ランキングぐらいしか存在しない。すべては監督の頭の中で決まる。監督のお眼鏡に叶った選手と、そうでない選手。強引に言えば、好き嫌いで、監督の選手評は変わる。選手にはつまり、相性の悪い監督、もっと言えば嫌いな監督がいる。

 先日、浦和対大宮をテレビ観戦していたら、実況のアナ氏は興梠選手のゴールが決まると「ミーシャ(ペトロヴィッチ)元監督に捧げるゴールです」と、述べた。退任劇を美しいストーリーに仕立てたがっているようだった。しかし、この手法では、浦和が弱体化した理由に迫ることはできない。

 とりわけ試合に出る人と出てない人がハッキリ分かれていたのが、ペトロヴィッチサッカーの特徴だった。スタメンはほぼ固定化され、布陣も一定なので、交代で出場する選手の顔ぶれもだいたい決まっていた。

 こうした中で、誰に話を聞くか。ここは、出ていない人、すなわちペトロヴィッチ監督から高い評価を得られていなかった選手の話を聞く場面だろう。それがサッカーというものだ。

 だが、本心はなかなか言いにくい。特にこの時代、引っかかりのある言葉を吐けば、総合サイトのトピックスを賑わすのがオチだ。選手から本音を聞き出すことは簡単ではない。

 ネットがここまで普及していなかった頃の話だが、その昔、ある選手が「捧げるゴール」発言をしたことがあった。ゴールを決めた後、ミックスゾーンで囲む記者から解任された監督とゴール...

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